プロフィール
著者(PN):
月下香治
(かすか・よしはる)
Yoshiharu Kasuka

メール
y-kasuka@jewelryeyes.net


2004年11月10日

2004年11月16日



2004年11月13日(土)

混沌と秩序の狭間で

 『GUNS BAR ROSES』のカウンターが回っています。
 『Takatan's Waffen-SS』のTakatan様からのイラスト、特にオールヌードバージョンを目当てに、多くの閲覧者が殺到しているのです。他力本願とはいえ、やはり嬉しいものがあります。今回は立ち上がりが日の途中だったためか、初日の数値が前回ほどではありませんが、確実に月平均を押し上げています。少しでも多くのリピーターの上積みを期待したいところです。
 ところで、この数字のひとつひとつは、実際は私だったり、ROSESの関係者だったり、まったく見も知らない通りすがりだったり、その他だったりと様々です。『GUNS BAR ROSES』を見たという以上の共通点や強い関連性があるわけではありません。示し合わせて同調的行動を取っているということもありません。しかし、訪問者数を1日単位などで区切ってみると、1日ごとの訪問者数がほぼ同じだったり、特別なコンテンツを掲載したときに訪問者数が上昇したりと、この「訪問者数」自体が何か意志を持った単一の人格であるかのように振舞っているように見えます。このように、個々の小さな現象を総合し、何らかの意味を持つように見えるひとつの大きな現象として提示する数値的操作を、「統計」と言います。
 統計が有用であるのは論を待たないことです。私もアクセス解析の結果から午前4時ごろに訪問者が少なくなる(ほぼ0になる)ことを発見し、重大なシステム変更の作業を午前3時以降にすることにしているなど、存分に活用しているというのは、これまで申し上げてきたとおりです。しかし、統計の本質は「論理」の厳密性を弱めることによって意味を見出すことであるため、統計によって導出された「現象」が観察事実や素朴な推論と異なって見えることも時に起こりえます。
(統計は詭弁に使用されることもあります。「治安は悪化していると思うか」などという設問には警戒が必要です。治安は地域住民全員が共有するひとつの社会的事実であるため、一地域一時点では複数の状態が存在せず、住民の信念とは関係がないのです)
 たとえば、検索エンジンも一種の統計です。ヒット件数はわかりやすい例ですが、個々の検索結果も、多くの過程を経て収録され、多くの過程を経て表示されたものであり、インターネットの内部状況に関するひとつの統計ということもできます。個々の過程はプログラムで制御されていますので、不合理なことが起こることはもちろんありえないのですが、コンピューターを長期間自動で動かし、多くの利用者の使用に曝していると、時に思いもよらないことが起こったりもするのです。
 当サイトでは検索エンジン『Google』をひとつの標準とみなし、その動向を観察しています。つい最近、『魔法乱舞ジュエリーアイズ』のデータページがGoogleに収録され始めました。夢の実現に一歩だけ近付いた感があります。
 一方で、『ROSES偏重ガンダムキャラクターリスト』の新データページはまだほとんど収録されず、代わりに「jewelryeyes.net」のサーバーに退避していたときのデータページが新たに表示されるようになりました。Googleでは新しいページが収録・表示されるのに最大8週間かかると通告されているとおり、今頃になって表示されるようになったということなのでしょうが、検索エンジンで検出されている間は転送用ページを削除することができないなど、何かと不都合もあります。
 この『ROSES偏重ガンダムキャラクターリスト』のデータページに関するGoogleの検索結果について、おかしな現象が起きています。「ガンダムキャラクターリスト」の検索結果の中からドメイン「www.jewelryeyes.net」で絞り込むと、中にドメイン「www.gunsbarroses.jp」の結果が紛れ込んでいるのです。「gunsbarroses.jp」と「jewelryeyes.net」はもしや同一視されているのではないかと常々思ってはいたのですが、それを証明するにしても、表示されているページの情報自体に整合性がありません。詳しくは、「site:www.jewelryeyes.net ガンダムキャラクターリスト」で実際にご覧ください。
 このように、法則や摂理が厳格に存在するにもかかわらず、世界は不合理と不条理で満ちています。人間などの有限の存在が無限の世界を正確に把握しようとするときの現実的限界と理論的限界によって、現実と理論との間に認識のギャップが生じるのです。このギャップを表すキーワードとして、「カオス」という言葉が使われ始めています。ここでは、ROSES随一の哲学家ブルーベルベットことフォン・ヘルシング大佐のリクエストにより、「カオス」について考察していきたいと思います。
 その前に、ヘルシング大佐から『ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環』(ダグラス・R・ホフスタッター著・白揚社・4944円)を譲っていただきましたので、この著書の内容に基いて10月15日の「ホフスタッターのブラマンジェ」を検証したいと思います。もちろん、書籍が世に出てからの社会的影響がその書籍に書いてあるわけがありませんので、ここで検証するのはホフスタッターが何を考え、何を書いたか(コンウェイ以前)だけです。なお、ホフスタッターはかなりお茶目な文章を書いていて、翻訳者の方もかなり苦労したのか、難解な文章が続いています。私もすべて理解できたわけではありません。
 ホフスタッターはその著書『ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環』の全域で、小さな現象が組み合わさってより大きな現象が生じること、大きな現象は多くのより小さな現象から成り立っていることを述べています。たとえば、アリが砂粒を運んでいると、いつの間にか蟻塚ができてしまうというようなことが書かれています。ホフスタッターはその中で、人間のような複雑な思考をコンピューターで再現するのに何が必要かということを考え、ひいては人間自身について考察を進めています。
 ここで、このような考察に有用な手段として提示されているのが「繰り返し」です。それも、ただの繰り返しではなく、ある規則によって導出された結果をその規則に再度適用して新たに結果を導出することを無限に繰り返す「再帰」というものです。
 「再帰」とは耳慣れない言葉かもしれませんが、言語学や数学では重要な概念です。言語学では、行動の影響が他者ではなく行為者自身に帰ってくるような行為を表現する言語形式を言います。「服を脱ぐ」などという表現が再帰表現に相当します。英語では「myself」など、ドイツ語では「sich」などが現れる文が再帰表現ですが、日本語には再帰表現全体で統一された形式はありません。再帰表現には特別な性質、たとえば再帰動詞は自動詞と他動詞の中間・両方の性質を持っている(「服を脱ぐ」は自動詞表現「服が脱げる」と対比すれば他動詞的だが、他動詞表現「服を脱がす」と対比すれば自動詞的)ということがあり、言語学上、あるいは言語教育上特別の配慮が必要になります。
 一方、数学での「再帰」は上で述べたとおりですが、このふたつの「再帰」には意味上異なる点があります。言語学の「再帰」は「自己完結」という含意がありますが、数学の「再帰」は「無限に続く」という含意があります。英語では、言語学の「再帰」は「reflexive」、数学の「再帰」は「recursive」と異なります。ホフスタッターもこのふたつの「再帰」については述べていません(単語が異なるから念頭に上るべくもなかったのでしょう)。ホフスタッターは英語の他にドイツ語やフランス語などの例をあげて言語と論理の関係について考察していますが、もしホフスタッターが日本語を熱心に学習していたら何を語っていたか(特に、東洋のとある一言語でたまたま同一の用語を与えられたふたつの「再帰」についてどう述べたか)とも考えます。
 私が「ホフスタッターのブラマンジェ」で述べた数列の一部については、『ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環』の第5章「再帰的構造と再帰的過程」で述べられています(ここでの「再帰」は、もちろん数学の「再帰」です)。ここでホフスタッターは、言語が持つ再帰性について図形的に考察し、その補助としてフィボナッチ数列などの数列を紹介しています。ただし、数列の紹介はあくまでも補助的という程度に留まり、後に「ホフスタッター数列群」として世界中の数学者を悩ませるような片鱗は微塵も見せていません。図形に再帰的操作を加えれば複雑になっていくのは目に見えて明らかですが、数に再帰的操作を加えても数であることに変わりはありませんので、子細に検証してもインパクトに欠けると判断したのかもしれません。
 Q数列は「混沌を生み出す不思議な数列」として横道的に紹介されています(フィボナッチ数列から直接変形したのではなさそうです)が、「フィールズ賞が獲れる」とも囁かれるほど難解な数列だとはホフスタッターも考えていなかったようです。「ホフスタッター・コンウェイの10,000ドル数列」は、もちろん紹介されていません。数列のアイディアのほうが先に立っていたとは書いてありますが、ホフスタッター自身も「すべてを列挙することが私の目的ではない」と書いているように、「ホフスタッター数列群」の成果の多くは後の数学者たちの業績のようです。
 ここで、「混沌を生み出す…」と言いましたが、この「混沌」は「カオス」の訳語です。それでは、「カオス」について考察していきましょう。
 「カオス」はもともとギリシア語で、「空気のように何もない物」という意味でしたが、哲学的に「やがては世界の全てを生み出すことになった、世界の始まりの前に存在していた無」と解釈されるようになりました。いろんな物をドロドロに煮溶かしてスープにしたような状態をイメージしていたようで、「どんな物でも存在し、何物も存在しない」というよくわからない説明をされています。この解釈を東洋で翻訳したのが「混沌」です。
 数学では「カオス」は、このよくわからないイメージを踏襲していますが、厳密に定義されています。「短期ならば予測が可能だが、長期になると予測が不可能になる状態」です。ここで「予測」とは、ある時点の世界の状態とその世界を支配する法則がすべてわかるときにその後の世界の状態を計算で導き出すことを言います。
(短期の予測はできますから、カオスは完全なランダムとは異なります。また、「カオス」と「フラクタル」は混同されやすいですが、フラクタルはある種の図形が持つ性質であるのに対して、カオスはある種の数列が持つ性質です。カオスを図形化するとフラクタルのようなものになることもありますが、それはまた別問題です)
 量子力学以前は、人間が未来を予測できないのは技術が足りないからで、世界の状態と法則がすべて判明すれば未来は完全に決定すると信じられていました。量子力学が物体の位置などの正確な情報を厳密に測定することは不可能であると断言した後も、誤差が僅かならばいつまで経ってもだいたい同じ値になるだろうと考えられていました。しかし、コンピューターが大量の計算を短時間で処理するようになると、この素朴な信念は突き崩されてしまいました。
 厳密な規則に従っているが見かけ上ランダムな数列を生成する関数があります(コンピューターはこの関数で乱数を生成しています)。初期値が同一ならば、数列はどこまでいっても同一です。ところが、ある数学者が、入力した数値のかなり小さい桁の数字が間違っていることに気付かずにコンピューターを放置していたところ、予想していたのとはまったく異なる結果が現れたのです。
 その後、ある種の条件下においては、初期値の僅かな誤差が指数関数的に増大し、やがては誤差の平均が考えられる最大の差異の半分に達し、予測と現実とに何の関連性もなくなるということが示されました。この「初期値に対する鋭敏性」、もしくは「短期の予測可能性と長期の予測不可能性」を総合して「カオス」と言うのです。
 この条件は何も特殊なものではなく、旧来「統計」的手法に頼っていた分野の多くがこのような性質を持っています。流体力学による気象予報もその一例と考えられています。「明日の天気予報はそれなりなのに、6ヶ月予報は当たらない」という世間の評価は、カオスによって裏付けされているのです。コンピューターで未来を予測する道は断たれました。
 しかし、このカオスを逆に考えると、「表面上は複雑な現象でも、少数(あるいは単一)の単純な規則の集合に還元することができる」と捉えることもできます。この単純な規則を組み合わせても、カオスによってもとの複雑な現象と同一にはなりませんが、「同一」にこだわらなければ「同種」のものが生成されることになります。特定の人間の行動を完全に予測して再現することは不可能ですが、人間のような思考をするロボットが作られる可能性はまだ残されているのです。
 カオスは人間の淡い期待を飲み込む側面とともに、新たな希望を生み出す側面をも持っていました。この分野の研究も、『ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環』が出版された1980年ごろから急速に進歩しています。現代の成果にホフスタッターは何と応えるのでしょうか。
 さて、次回の更新は11月16日と断言します。この日は当サイトの設立目的から見ても重大な日です。次回は当サイトのタイトルでもある「ジュエリーアイズ」について解説してみたいと思います。


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