プロフィール
著者(PN):
月下香治
(かすか・よしはる)
Yoshiharu Kasuka

メール
y-kasuka@jewelryeyes.net


2004年12月8日

2004年12月19日



2004年12月15日(水)

萌ゆる想いを

 年末の臨時メンテナンスに向けて、今週は美少女ゲームの体験版ばかりしていました。その甲斐あって、未プレイの22本のうち、16本を消化することができました。やればできるものです。
 現実世界では報告するべきことが起こっていませんので、予告どおり、学術的論陣、言語学関連のお話をしていきたいと思います。
 買い物の内容さえ曝し物にする日記系サイトでは詮方ないものかもしれませんが、当サイトでも私の指向性が暴かれつつあります。ということで、今回は当サイトでも何度か登場した「萌え」という概念について考察してみることにします。
 「萌え」などという俗っぽい感情は学術からは程遠いものと思えるかもしれません。しかし、そもそも言語学というものは、その気になれば世界の全てを表現することができる、世界の原理に最も近い「言語」というものを対象とする学問ですので、「萌え」だろうが何だろうが考察の対象とすることに何らの齟齬もないのです。
 今年は流行語大賞の候補に「萌え」がノミネートされるほど、一般の社会でも「萌え」なる言葉が注目された年でした。パソコンの黎明期に幼少のころに立ち合い、マンガ・アニメ・ゲームという現代視覚文学の推移を眼前で見守ってきた私たちからすれば、「何をいまさら」というような感慨でしたが。
 ワイドショーなどでは「萌え」を「アニメに登場する少女キャラクターに対する愛着」などと素っ気なく解説していながら、その特殊な派生形態であるメイド喫茶などまでをも同時に紹介し、年輩の出演者や視聴者を大いに混乱させたりもしていましたが、「萌え」とは門外漢がそのように単純に把握できるものではありません。「萌え」を個々の人間の持つ感情の一種として、そのような感情を惹き起こす対象の性質とも併せて考察する必要があるのです。
 その前に、この「萌え」という語が「燃」ではなく「萌」という字を用いる理由について、最も確からしいとされる説を紹介しておこうと思います(ただし、古代日本語に関する件は月下香治の個人的考察です)。
 現代日本語では「子音-母音」という音韻構造が強固な基礎になっていますが、古典日本語のさらに昔、文献も残っていないような太古の時代の日本語は「子音-母音-子音」という音連合がひとつの抽象的な概念を表していたと考えられています。このうち、「moy」という音連合は恐らく「視野全体に渡る広い範囲が明るい色に変化する」という概念を表し、現代日本語の「もや(靄)」という単語に引き継がれています。
 この「moy」という音連合は、木々が見る間に赤い光に包まれていく「燃える(燃ゆ)」という現象を表現するとともに、春の訪れとともに木々が緑に装いを変えていく「萌える(萌ゆ)」という現象をも表現していました。このふたつの現象は「moy」という音連合の下に古代日本人の意識の中で共通性を持つの概念として認識されていました。
 やがて中国から漢字が導入され、漢字の権威性が日本社会を支配するようになると、本来は単一の単語であった日本語の単語が、中国語の概念構造にしたがって「同音異義語」とみなされるようになりました。「燃える(燃ゆ)」と「萌える(萌ゆ)」も別語として分離を余儀なくされるとともに、「燃える」は生活に密着した通俗語、「萌える」は自然を賞嘆する雅語として、一千年の長きに渡ってその居処を異にしてきました。
 通俗語である「燃える」には、その原義である物理的現象のみならず、「心の中に熱い感情が沸き起こる」という派生義が付加されるというのも言語の常です。時代は下って現代、10年前までは、「ヒーローの熱い言動に対する共感」も「ヒロインの美麗さ・可憐さに対する憧憬」も確かに「燃える」と表現されていました。
 1994年、アニメ『美少女戦士セーラームーン』シリーズの第3部、当時放送中だった『美少女戦士セーラームーンS』に12歳の薄幸の美少女「土萌蛍(ともえ・ほたる)」というキャラクターが登場しました。ファンは普及しはじめたパソコン通信でほたるちゃんに関する情報を交換し、感想を活発に語り合っていました。
 その際ネックになっていたのが、彼女の名前の漢字表記の難しさでした。特に、「萌」という漢字は当時はあまり知られていませんでした。「土萌蛍」という名前が早く入力できるよう、「もえ」という読みが「萌」という漢字に優先的に変換されるように漢字変換ソフトを調整しているうちに、本来「燃える」と書くべきところを「萌える」と変換してしまう例が散見するようになりました。
 この「萌」の原義である「植物が生長しはじめる」が「成長途上の少女」を想起させ、それらしく思えたのか、「萌える」という表現はパソコン通信のコミュニティーの中で「可憐なヒロインに対する感情」を意味するものとして広まっていきました。パソコン通信の世界では誤変換を仲間内の隠語として使用するという慣習がありますが、そもそも日本語にはあらゆる機会を捉えてその概念を専門に表現する専用の単語を作ろうとする潮流があるのです。
 こうして、「萌える」は「燃える」のもう1段階深い派生義として「アニメに登場する少女キャラクターの対する愛着」という意義を担いはじめるようになりました。現在では「萌やす」「萌え尽きる」「萌えないゴミ」などという表現も発生し、文法・語彙構造に関してもまさしく「燃える」と軌を一にするようになってきているという傾向があります。その意味では今年は確かに「萌え10周年」の記念の年であり、社会の注目を集めるようになったのも奇遇と言えるかもしれません。
(「萌え」の語源になったキャラクターはもうひとりいると言われていますが、あいにく月下香治は不分明です)
 このように、「萌え」は確かに「アニメに登場する少女キャラクターに対する愛着」を表現するものとして発生したものではあるのですが、現在では「萌え」の感情や「萌え」の対象になるものの性質は多種多様になっています。「…萌え」という複合語が無尽蔵に作られ、それぞれの「萌え」が群雄割拠を展開し、あるいは同属嫌悪のようにも見える混沌を呈してもいます。このような状況下で、評論家などが大上段に立って「萌え」を論議することに嫌悪感を示すオタクも存在します。しかし、「萌え」を言語学的に考察する以上、「萌え」であるもののほとんどを含み、「萌え」でないものをほとんど含まない包括的定義を示す必要があります。
 私、月下香治は「萌え」を次のように定義します。
「社会的には自立して存在するのが困難なように見えるが自己の嗜好を完全に具現しているようにも思える対象に対して、一般社会に反目することになろうともそれを庇護しなければならないという義務感と、それの価値を積極的に認定することによって逆に自己が承認されるのではないかという期待感とが交錯し、制御が困難になるほどに湧出する強烈な愛着の感情。また、感情主体にそのような感情を惹起する対象の性質」
 それでは、この定義の個々の部分について解説していきます。
 まず、定義が「〜。また、〜」と二つに分かれていますが、確かに「萌える」には「彼はあのキャラに萌えている」という主体の感情を表現する用法と、「あのキャラは萌える」という対象の性質を表現する用法があります。「萌える」は感情という行為を表現する動詞ではありますが、一方で「燃やす」という他動詞に対応する自動詞でもあります。実は、日本語の状態や状況の変化を表現する自動詞、特に対応する他動詞を持つ自動詞は潜在的に「可能」の意味を持っています。そして、日本語の可能表現には、「彼は酒が飲める」のような「能力可能」の用法とともに、「この酒は飲める」という「恒常的属性評価の可能」という用法もあるのです。主体と客体が逆転した状況を同じ単語で表現するのは一見非合理的ですが、文脈や構文で区別できますし、英語や中国語のような大言語でもよくある現象です。
 次に、定義の中の「承認」とは、心理学で言う「承認の欲求」を意味します。心理学では、人間は自分が生きる意味を他者から承認されることを常に強く欲しているとされています。この「承認」には文字どおり他人から賞賛されたり、社会的な権威によって設定された目標を達成したりというものもありますが、一番大きいものは行動を反復する動機にもなる「快の感覚」、特に愛される体験や性的快感を感じることであるともされています。
 また、「感情の制御が困難になる」とも読み取れる記述がありますが、「感情の制御」と「行動の制御」は異なります。せいぜい、無口なオタクが突如饒舌になるくらいのものです。そもそもオタクは現実の人間に対する欲望に薄い、最も攻撃性の低い安全な人種です。オタクが性犯罪の予備軍であるかのように嘯く一部の「識者」の言説や世間の風潮は実に心外です。
 続いて、「萌え」の感情の対象になるものの性質について考察していきます。
 定義では「社会的には自立して存在するのが困難」とありますが、これには複数の種類があります。「経済的に自立できないくらい若い」というのはわかりやすいですが、その他にも「不利な形質を具えている」「街頭に立つのが羞恥される扮装をしている」「社会的に何物かに従属している」などというのも含まれています。
 「不利な形質を具えている」とは、たとえば「メガネをかけている」「頭がよくないように思える話し方をする」というようなものです。その他にも「黒髪」「長髪」というのも、「女性の社会的進出を妨げる旧弊の社会通念にあえて従っている」と解釈することによって「萌え」の対象とすることが可能になります。
 「街頭に立つのが羞恥される扮装をしている」とは、「ブルマー」や「スクール水着」などのように若干露出度の高いものや、「ゴシックロリータ」のように一般人の殺風景な装いからは表徴した形式重視の服装などです。ただし、ビキニなどのようにファッション性の高いものは海岸などでは普通に目撃されますし、体操服などに対して下着姿や全裸ではそもそも屋外に出ることが想定されていませんので、「萌え」の対象にはなりにくいものです。
 「社会的に何物かに従属している」とは、「メイド」「看護婦」「巫女」「シスター」など、社会的な権威に従属し、献身性を具現化しているとみなされる存在などです。「妹」などのような同等・下位の関係性というのもあります。「ネコ耳」などは愛玩動物というまさしく従属している存在を想起させるとともに、「街頭に立つのが羞恥される扮装」という要素も持ち合わせています。
 これらの性質のうちの一部で、自分の趣味嗜好に合致するものを具えている(それ以外の一般的な性質が目立たない)と視覚的に認識できる、もしくは文章的に解釈できる対象に出会ったとき、人は「萌える」のです。このように「萌え」は確かに共通した機構によって発現する感情ではありますが、実際には多様な対象に対する個別的体験として個々人の心理の内部で認識されていますので、巷間説かれているような表層的な解釈ではとても把握しきれないことでしょう。
 「萌え」の対象には嗜好に合致する性質以外が捨象されることが求められますので、架空の存在でなければなかなか「萌え」の対象にはなりにくいものですが、昨今の若者が小倉優子嬢に「萌える」のも何となく納得できます。
 恋愛感情というものは人類に普遍的なもので、本来は文化による偏移が少ないものであるはずです。それでは、世界中の文化を貪欲に吸収し、日本のアニメなども「クールカルチャー」として好意的に受け入れているアメリカの言語である英語では「萌え」はどのように表現されているのでしょうか。
 記事が長くなりそうですので、ここでいったん終了します。次回は近いうちに、「萌え」に関する世界の状況と、私が提案した「萌え」の英訳についてお送りします。


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