プロフィール
著者(PN):
月下香治
(かすか・よしはる)
Yoshiharu Kasuka

メール
y-kasuka@jewelryeyes.net


2004年12月15日

2004年12月25日



2004年12月19日(日)

萌ゆる想いを・続き

 前回この場で「萌え」について述べ立てたところ、『GUNS BAR ROSES』の掲示板でキャプテンが紹介してくれたようで、若干多めの閲覧者様にご訪問いただけた模様です。私はキャプテンは「萌え」を理解していない人間だと思っていたのですが。それほどまでに「萌え」が好きだと言うのならば、CGサイト更新情報ニュースサイト『CG定点観測』を隅から隅まで見渡して、(「絵柄」ではなく)どの「キャラクター」、どんな「シチュエーション」に「萌え」たのかを報告してもらいたいところです。
(後記:後で読み返してみたら、どうやらキャプテンの記事は現代の「萌え」に批判的だったようですね。しかし、それでもキャプテンは投稿イラストサイトの管理人として「オタク」や「萌え」を理解しておく必要がある、「萌え」を信条的に排斥していることをことさらに表明するのは信義に悖ると、これまでも何度も申し上げてきたのですよ)
 さて、前回は「萌え」に関する世界の状況をお伝えすると予告して筆を置きました。はたして、日本以外にも「萌え」は見出されるのでしょうか。
 恋愛感情というものは人が人を想う基本的感情であり、社会を結束させ、文化を醸成する原動力にもなってきたものでした。これは人類に普遍的なもので、本来は文化による偏移が少ないものであるはずです。しかし、アニメに親しくない地域では、アニメに関連の深い「萌え」の概念が発生していないとしても当然のことです。
 一方、日本のアニメはその完成度の高さで欧米や東・東南アジアはもとより、アラブ地域でまでも楽しまれているとのことです。特に世界中の文化を貪欲に吸収しているアメリカでは、日本のアニメも「クールカルチャー」と評価して好意的に受け入れています。それでは、そのアメリカの言語であり、私たちにも馴染みの深い英語の文書に当たれば、アメリカ人が「モエモエ」している現状を目の当たりにすることができるのでしょうか。
 実は、状況はあまり芳しくないのです。
 キリスト教のような一神教が倫理の根幹になっているヨーロッパを含めた世界の大部分の地域では、完成されたものの美に対する憧憬があり、成熟した女性に対する愛情が恋愛の基本になっています。「小さい子供が好きだ」などと表明した日には「ペドファイル」との謗りを免れえず、社会から永久に排斥されるという憂き目を見ることになります。
 一方、日本では昔から幼い者を慈悲深い哀憐の目で見守る風習がありました。
 例えば、「けなげ」という語は「幼い者の一生懸命な姿に胸を打たれる様子」を表しています。英語などには翻訳しにくい概念です。
 「可憐」という語は「憐れむべき様子」という意味から「小さい者が具えている、見守りたくなるような美しさ」という意味に転化しています。「pitiful」と「cute」との意味のつながりは、外国人にはなかなか理解されません。
 そもそも「幼い」に対応する英語は、「若い」まで含んでしまう「young」か、ラテン語起源の高尚語「infantile」ぐらいしかありません。日本語では「幼い」の他にも「いたいけ」「あどけない」「いとけない」などの豊富な語彙があるのと対照的です。
 この「けなげ」「可憐」という「幼い者が持つ美徳」を積極的に評価しようとする概念の系譜に連なるのが、現代の「萌え」というものなのです。
 このように、「萌え」は日本にかなり固有の世界観に立脚した概念ですので、外国語の文章の中に「萌え」に相当する表現を見出すのはかなり困難です。
 私、月下香治は「Kasuka」というハンドルネームで翻訳者ポータルサイト『ProZ.com』に参加しています。『ProZ.com』では世界中の数万人の翻訳者が翻訳の仕事の情報を共有するとともに、翻訳に行き詰まった表現を質問し、他の翻訳者の回答を募集するコーナーもあります。
 私は日英韓の3言語間と、日本語とドイツ語・フランス語・スペイン語・イタリア語との間の質問をチェックしていますが(英語が関与しない質問はほとんどありませんが)、翻訳者はたいていアメリカに集中していますので、時差の関係で私がチェックするころにはほとんどの質問に既に回答が付いています。私は、よほど難しくて回答が付かなかったり、回答者が何か誤解しているような回答を付けた質問に時々回答しています。
 今年の7月10日ごろ、このような質問がありました。
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 「モエ」という日本語の英訳を教えてください。
 この単語は「萌え」を語源にしているとは思いますが、もっと俗語的に使用されています。マンガのセリフとして直接使える翻訳を作っていただけるよう、皆様のご助力をお願いします。キャラクターに対する愛情とか執着というように漠然と理解していますが、どういう単語が実際に使われているかがわかりません。
 例文としては、「モエッスね!」「キャラモエ!」「何かモエって感じ?」などがあります。
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 既にひとりの回答者から「Hot!」という訳語が提案されていました。確かに「hot」は「燃える」との接点もありますが、キリスト教文化圏で頻繁に使用される俗語では「萌え」の対象である「小さい者」をカバーしきれるように思えませんし、何より「性的に興奮している」という面を強調しすぎるのはイメージ的にもあまりよいこととは思えません。この分野は私の守備範囲ではありましたが、にわかには対案が思い付きませんでしたので、しばらく見守ることにしました。
 2日後、別の回答が付きました。その回答では、「wanna-be」という訳語が提案されていました。「wanna-be」とは「want to be」の略語、すなわち「(そう)なりたい」という憧れの対象、もしくは憧れている本人をさす俗語です。どうやらこの回答者は「萌え」を「憧れ」と解釈したようです。しかし、「萌え」とは「対象に同化しようとする欲望」ではなく「対象より支配的な立場に立とうとする欲望」、「そうな」っても仕方のないことです。ミスリードの危険性が高くなってきましたので、私も回答を準備することにしました。
 インターネットでは特定の用語を解説しているページに素早く辿り着けるテクニックがあります。日本語では「…とは」というキーワードで検索すると、その用語を解説するページを発見できる確率が高くなります。英語では、「"What is(are) ..."」というキーワードを使用します。そこで、「"What is moe"」というキーワードで検索してみました。
 どうやら英語には「Moe」という人名が実在するようで、しかも男性のようです。人間に「What」は使いませんが、「Moeの…は何かというと…」というようなページが数百件も続きました。結局、日本の「萌え」について解説しているページは2件のみ、どちらにも英訳語は書いてありませんでした。
(一方のページには「moetry」なる単語が使用されていました。詩という文学全体を表す集合名詞「poetry」をもじったものと思われます)
 訳語は自分で準備しなければならなくなってしまいましたが、和英辞典にはもちろん「萌え」の項はありません。「魅惑」などの項で調べると「fascinate」などという動詞がありますが、これらもやはりキリスト教文化圏の中の概念ということで同様の問題が付きまといます。
 ここでひとつ、重大な問題がありました。
 英語などの西欧語で感情を表す表現には「happy」や「sad」のような単純なものもありますが、基本的には「surprise(驚かす)」「interest(興味を起こす)」「freighten(怖がらせる)」などという対象の「行為」に影響された受動的な状態「surprised(驚いた)」「interested(興味を持った)」「freightened(怖い)」などとして表されます。これらの表現は文法に支配されていますので、立場が異なる状況を表すのに同一の表現が使用されることはありません。英語のような文法的規制の緩い言語では珍しいことです。
 質問者が示した例文では、感情か対象の性質かは特定が困難です。文章の中心的な用語のようでもありますので、どちらでも通用する訳語を提案する必要がありますが、西欧語では同一の用語を使用することができないのです。
 一方で、文法に支配されるということは、両者の表現が似たものになるということにもなります。ここに活路を見出した私は、回答を書き上げ、投稿しました。
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 「萌え」という単語について「charm (charmed/charming)」という訳語を提案します。
 「萌え」は翻訳が非常に難しい単語だと思います。
 「萌え」とはある種の対象の性質に対する主体の感情であるとともに、主体の感情を惹き起こす対象の性質でもあります。あなたが示した例文中の「萌え」では、どちらかと特定することができません。英語で感情と性質とをひとつの単語で同時に表現する方法を、私は寡聞にして知りません。ひとつの方法として、ed形で感情を表現し、ing(y)形で性質を表現する感情動詞・形容詞を使用するという方法があります。
 「charm」は次善の回答です。ほとんどの日本人は「チャーミング」を「キュート」の同意語と考えてはいますが、「charm」でさえ対象が「セクシー」ではなく「キュート」であるということを十分には表しきれないのです。
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 誤った回答が承認されるのを防ぐため、ここでいったん切り上げ、早めに投稿しました。
 つまりは、「彼はあのキャラクターに萌えている」なら「He's charmed with that character.」、「あのキャラは萌える」なら「That character is really charming.」という翻訳を提案したということです。言語が異なる以上、全てにおいてニュアンスが同等というわけにはいきませんが、「m」の音が含まれているという点と、「burn(燃える)」に音節構造が近似しているという点は、なかなか愉快な偶然の一致です。
 質問者は謙虚にもこの質問を「学習者レベル」としていましたが、このようにある言語やその言語地域に固有の概念を翻訳するのは非常に困難なことです。投稿と同時に、「この質問は「プロレベル」であるべき」とのレベル変更の投票もしておきました。
 次は情報源を示す番です。
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 アメリカの最も権威のあるオタクやオーストラリアの日本人留学生が「萌え」の何たるかを説明しているページがあります。
 私たちは未だ「萌え」という概念の存在を世界に紹介しなければならない段階にあるのかもしれません。これら2件のページには「「萌え」は英語の"..."に相当する」とは書かれていないのです。
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(「アメリカの最も権威のあるオタク」とは、アメリカで日本のアニメを配信する企業に勤務し、アメリカ人のアニメに関する質問に回答する『Ask John』の管理人、John様のことです)
 文法的に詳細に解説したのが効を奏したのか、私の回答が採用されることになりました。「萌え」が世界に誤って伝えられる事態は、ひとまずは回避されたというところでしょうか。詳しくは「/kudoz/758705」をご覧ください。
 私は「萌え」の英訳語を提案した稀有な人間として歴史に名を残すのでしょうか。私はまだ不満です。自然発生的に誕生した「萌え」に相当するものは、やはりその現場、その言語が実際に使用されている場面で自然発生的に誕生した何物かであるべきです。そのような栄誉が存在するのならば、私は母語話者の紹介者に譲りたいと思います。一方で、日本はアニメの先進国として、マンガ・アニメ・ゲーム関連の用語を収集し、適切な訳語を提案することによって世界のアニメ文化をリードしていくべきという必要性をひしひしと実感しています。
 さて、次回の更新は、とうとう美少女ゲームの体験版22本を制覇し、臨時メンテナンスの準備が整いましたので、「メンテナンス・その3.5」になることと思います。


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