プロフィール
著者(PN):
月下香治
(かすか・よしはる)
Yoshiharu Kasuka

メール
y-kasuka@jewelryeyes.net


2004年11月23日

2004年12月3日



2004年11月29日(月)

嘘つきのパラドックス

 11月23日、サバイバルゲームに参加しました。それなりに撃ったり撃たれたりして楽しめました。今回は意外にも筋肉痛にならず、前回の超回復が無駄にはならなかったのだと実感した次第です。
 おしまい。
 …
 本格的にネタのエアポケットに入り込んでしまったようです。とりたてて書けるようなことが出てきません。長く書くのが習慣になるのは自分の首を絞めることになるというのはわかってはいますが、これではあまりにも短すぎます。「週に1度以上」の公約を満たしたことにはなりません。
 ということで、哲学家ヘルシング大佐に無理にお願いして、リクエストを出していただきました(「リクエスト」としては本末転倒ですが)。何かないですかね…。
 「ヴィトゲンシュタイン」ですか? 哲学は範囲外でして。それに、私は「歴史的事実」というのが苦手なのです。
 ああ、「フラクタル」についてですか。それも結構そそられる話ですが、本格的な議論になりそうですので、次の機会ということにしましょう。
 「嘘をつくクレタ人」? ああ、あの話ですね。それでは、それについてお話ししていくことにしましょうか。
 聖書には次のように書かれています。
「全てのクレタ人はひどい嘘つきだ。高名な哲学家エピメニデスもそのように言っている。まさしくその通りだと私も思う」
(「クレタ」とは、ギリシア文化圏に属する島の名前です)
 ずいぶん差別的な断定ではありますが、これだけでは論理的にどうということもありません。問題なのは、このエピメニデス自身もクレタ人ということなのです。ひとりのクレタ人が(自分自身を含めた)全てのクレタ人の発言の正当性を否定したということになります。これは大問題です。
 もし「全てのクレタ人は嘘つきだ」が本当ならば、クレタ人であるエピメニデスも嘘つきです。ということは、エピメニデスの発言である「全てのクレタ人は嘘つきだ」は嘘になります。
 逆に「全てのクレタ人は嘘つきだ」が嘘ならば、エピメニデスは正直者になります。ということは、エピメニデスの発言である「全てのクレタ人は嘘つきだ」は本当ということになって、この発言の真偽を決定することができません。
 これが世に言う「嘘つきのパラドックス」、正式には「エピメニデスのパラドックス」(Epimenides paradox)というものです。
 このパラドックスについて考える前に、「否定」という概念が論理学ではどのように扱われているかを把握しておく必要があります。
 論理学では、事実や規則に即して真偽が決定される文を「命題」と言い、命題が事実であることを「真」、命題が事実に反していることを「偽」と言います。今後はこの用語法に基き、「本当/嘘」を「真/偽」と言うことにします。
 数理論理学ではこのような命題や、命題同士を結び付ける接続詞を記号に置き換え、計算しています。命題は一般的にP・Q・R…などのアルファベットに置き換える慣習があります。また、接続詞「PかつQ」「PまたはQ」「PならばQ」「Pでない」は「P∧Q」「P∨Q」「P→Q」「¬P」と置き換えられます。このような記号列を考察する最も簡単な論理システムを「命題論理」と言います。
 このうち、否定に関わるのは「Pでない(¬P)」です。Pが命題ならば「¬P」も命題であり、Pが真のときは¬Pは偽、Pが偽のときは¬Pは真と定義されています。ごくごく単純ですし、一般的な観念とも合致します。しかし、まだ「全てのクレタ人は嘘つきだ」を考察できる段階ではありません。
 実は、Pなどというアルファベット1文字で表される命題は主語と述語をひっくるめたひとつの「文」であり、その中の主語や述語を分析して考察することができません。そこで、述語「…はAである」を独立させ、ここに主語x・y・z…などを適用させて初めて命題「A(x)・A(y)・A(z)…」にするというシステムが考案されました。このような論理システムを「述語論理」と言います。
 述語論理の利点は、ある述語に合致する(真になる)主語の存在比率を計算できるということです。これを「量化」と言います。量化の中で最も重要なのが「全てのxはAである(∀xA(x))」と「あるxはAである(∃xA(x))」で、一般の述語論理はこの「全ての」「ある」のみを量化として論理を構築しています。
 では、「全てのxはAである」の否定は「全てのxはAでない」なのでしょうか。
 ここで、xの中にx1とx2というものがあり、x1はAであり、x2はAでないと仮定しましょう。このとき、「全てのxはAである」は偽ですが、「全てのxはAでない」も偽です。しかし、偽である命題の否定は真であると定義されていますので、「全てのxはAである」の否定は「全てのxはAでない」ではありえません。「全てのxはAである」という命題が偽であるときに常に真になる命題は「あるxはAでない」です。よって、「全てのxはAである(∀xA(x))」の否定は「あるxはAでない(∃x¬A(x))」となります。
 「全ての…」の正確な否定の方法がわかりましたので、「全てのクレタ人は嘘つきだ」という発言を検証してみましょう。この発言を真としたときに矛盾を生じるのは上記の通りですので、偽としたときのみを検証します。
 「全てのクレタ人は嘘つきだ」が偽である場合、事実としてはその否定「あるクレタ人は正直者だ」ということを主張していることになります。もし、クレタ人のうちひとりでも正直者がいれば(仮定としても非常に可能性の高いものです)、「あるクレタ人は正直者だ」という主張は真になり、ただエピメニデスがとてもひねくれた嘘つきだったから「全てのクレタ人は嘘つきだ」と嘘をついたということになります。パラドックスは解決しました。
 めでたしめでたし。
 しかし、この場合はクレタ人が複数存在するという事実に助けられましたが、もしエピメニデスの発言が「自分は嘘つきだ」だったらどうなっていたでしょうか。嘘つきといえども始終嘘をつくわけではない(前提が偽でも結論が真になるということは論理学ではいくらでも起こりえます)という事実に照らし合わせれば、「嘘つき」とは「嘘をつくこともある人間」ということになり、自分の過去の言動を反省した普通のセリフということになります。この解釈に従う場合、正直者のクレタ人がひとりもいなくても、「全てのクレタ人は嘘つきだ」という発言に矛盾はなくなり、たまたまそのときエピメニデスが嘘をつかなかったということで万事解決です。
 言語心理学的に言えば、人間は全数調査をしたわけでもないのに「えー、だってみんなやってるよ」などと軽々しく言ったり、「クラスのみんなが持ってるから、あたしにも買って」などと全てと言っていながら自分を除外しがちです。そもそも、人間は何かの集団に所属していても、いついかなるときでもその集団に完全に所属しているというわけではありません。「全てのクレタ人は嘘つきだ」という命題を、クレタ人というだけでその発言者であるエピメニデスに適用する必然性はないのです。
 では、時間的にも空間的にも複数の状態が存在しない1個の存在が自分自身を否定していたら、どういうことになるのでしょうか。
 「この文は偽である」という文を考えてみます。この文の中にある「この文」とは、その文の直前の文ということではなく、「この文は偽である」という文そのものということにするのです。「この文」=「この文は偽である」ですから、「この文は真である」という主張と「この文は偽である」という主張とが等しくなってしまいます。指し示すものはただ1個ですから、どこにも逃げ場はありません。この一歩洗練された矛盾を「エウブリデスのパラドックス」(Eubulides paradox)と言います。
 ひとつの解決法は、この文の正当性を認めないことです。文の中に何かを指し示す語が存在する場合、その指し示す語を指し示されている物を表す語に置き換えれば、普通は何かを指し示す語が文中から消滅し、事実に即してその文の真偽を決定することができます。「この文は偽である」の「この文」は「この文は偽である」に等しいのですから、「「この文は偽である」は偽である」になりますが、それでも「この文」という部分は消滅しませんから、何回この操作を行っても外部の事実に照らし合わせられるようにはなりません。そもそもどのような心理を持つ人間が「この文は偽である」の真偽を決定せよと迫ってくるのかということを考えると、私たちがこんな文に自然に直面する機会はほとんどなさそうに思えます。
 しかし、「この文は偽である」と同等の構造を持つ「この文は真である」という文は矛盾にはなりませんので、この種の文全体を排除することはできません。命題論理や第1階述語論理が完全である、すなわちその範囲内の記号列が与えられればその真偽は必ず決定されるということが証明されている中、真偽を決定することも他の解決法を示されることもないまま放置される命題が存在することは、数学全体の正当性をも揺るがす重大事態です。
 この文が他の普通の文と異なるのは、指し示すものが自分自身であるという「自己言及」という特徴を持っているということです。私が「私」と言いながら自分の行動を言い伝えているようなものです。しかし、立場ごとに異なる実体を指し示していながら同じ表現を使用するという、人間では当たり前のことが、数理論理学は得意ではありません。何か他の方策を講じなければならないのです。
 20世紀初頭の数学者ゲーデル(Kurt Gödel)は考えました。論理式の各記号に符号を割り振って命題のひとつひとつに数を対応させ、番号の付いた命題を扱うことができる論理システムを構築すれば、自己言及について考察できるようになるのではないか、と。そしてゲーデルは、実数全体の個数が自然数全体の個数よりも多いということを証明する「対角線論法」を駆使して、「数nに対応する命題は…である」に対応する数が同じくnになるという数が「…」の如何にかかわらず存在するということを証明しました。これによって、「この命題は証明不可能である」という命題が存在することになります。
(Pという命題と「Pは真である」という命題の真偽は常に等しいので、「…は真(偽)である」という述語を導入する必要はありません。ゲーデルが導入した述語は、「…は(真であると)証明可能である」というものです)
 この命題を真とすると、この命題は証明不可能ですから、真とは断言できなくなります。この命題を偽とすると、この命題は証明可能になりますから、この命題は真になってしまいます。このように、「数論を含む論理システムに矛盾がない(偽である命題を証明してしまうことがない)ならば、そのシステムには真とも偽とも決定できない命題が少なくともひとつ存在する」という事実を「ゲーデルの第1不完全性定理」と言います。
 ただし、一歩上に立ってこのことを眺めてみると、この命題は証明できなかったのですから、「この命題は証明不可能である」は真です(これを「非計算的事実」と言います)。このように、元の論理システムを包み込む上位の論理システムを構築すれば、元の論理システムで決定できなかった命題が証明できることもあります。しかし、その上位の論理システムも「数論を含む論理システム」であることに変わりはありませんから、「真とも偽とも決定できない命題」は必ず存在します。
 ゲーデルはさらに、「この論理システムには矛盾はない」という命題を表す論理式をその論理システムの範囲内で構築し、「「この論理システムには矛盾はない」が証明可能ならば、「この命題は証明不可能である」も証明可能である」という命題が真になることを証明しました。「この命題は証明不可能である」は証明不可能ですから、「この論理システムには矛盾はない」も証明不可能になります。このように、「数論を含む論理システムに矛盾がないならば、そのシステムは自分自身に矛盾がないということを証明することができない」という事実を「ゲーデルの第2不完全性定理」と言います。
 「全てのクレタ人は嘘つきだ」という「エピメニデスのパラドックス」を厳密に解釈しようとする中での、数学の完全な形式化への試みは、ひとりの天才数学者の出現で脆くも崩れ去りました。これを、形式主義的数学の完全性、ひいては科学全体のそれ自体での正当性を謳おうと試みた「ヒルベルト・プログラム」の敗北と見る人もいます。しかしむしろ、科学的知識が極限と思えるほどに積み上がっても、科学者や数学者には新たに研究すべきことが残されている、仕事の種は尽きないと、楽観主義的に考えたほうがいいのではと考えます。
 一般的には、「俺はいつでも正しいんだ」などと高言する人間の正当性こそ疑わしいものだという警句と解釈することもできます。昨今は言葉の乱れなどということを非難する過程で「正しい日本語」などと軽々しく口にするのを耳にすることが頻繁にありますが、むしろ私たちは「正しい」ということの本当の意味の再考を迫られているのかもしれません。
 論理システムに非計算的事実があるということから、コンピューターは人間のような創造性を発揮することができない、ロボットは感情を持つようにならないと主張する人もいます。しかし、カオス理論を応用して論理演算を経ずに世界を把握するシステムを作ればコンピューターにも人間のような思考をさせることが可能であると、ホフスタッターなどは考えているようです。
 さて、次回の更新は、11月30日に買い物に出る予定ですので、12月2日ごろに「お買い物・その3」を送りする予定です。


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